『Tokyo Art Research Lab 評価ゼミレクチャーノート』はPDFダウンロードできます!



2010年7月から2011年2月まで開催されたTokyo Art Research Lab「アートプロジェクトを評価するために―評価の<なぜ?>を徹底解明」の記録集が出来ました。評価ゼミの議論が、余すところなく詰まっています。ぜひ、ご活用ください。ご意見、ご感想もブログのコメント欄やツイッターにてお待ちしております。

以下のサイトでPDFがダウンロードできます。
Tokyo Art Research Lab
http://www.bh-project.jp/artpoint/app/class04-01.html
企業メセナ協議会
http://www.mecenat.or.jp/news/publications/reports.html#hyouka

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【目次】
・はじめに
・目次
・「アートプロジェクトを評価するために―評価の<なぜ?>を徹底解明」講座概要
・評価ゼミレクチャーノート
第1回 「オープニングレクチャー」
第2回 「助成財団の評価」
第3回 「企業メセナの評価」
第4回 「行政の政策評価」
第5回 「アートプロジェクトの評価:ピア・モニタリング編」
第6回 「アートプロジェクトの評価:継続・発展・振り返り編」
第7回 「ロールプレイング・ディベート」
第8回 「プレゼンテーション&講評」
・評価ゼミ研究会の記録
・資料編
用語集
参考文献
参考リンク
・おわりに

レポート|第6回「アートプロジェクトの評価」

RA/佐藤李青

第6回の評価ゼミはテーマを「アートプロジェクトの評価:継続・発展・振り返り編」として、雨森信さん(インディペンデントキュレーター/remo[NPO法人記録と表現とメディアのための組織]理事)をゲストにお迎えしました。2003年から大阪の新世界・西成を中心に展開されてきたブレーカープロジェクトでのご自身の実践を振り返りながら、その評価についてお話いただきました。



Ⅰ.ブレーカープロジェクトの評価

1. 支援ではなく、投資として
現代芸術の世界から孤立した状況への違和感、社会が経済効率化と均一化へと進むことへの危機感、アートと社会をつないでいくために街に創造の現場をつくっていく。雨森さんの経験や問題意識を背景に、ブレーカープロジェクトはアートと社会の多様な「関わりしろ」をつくっていく活動として、2003年に始まった。
 大阪市の事業(大阪市芸術文化アクションプラン 大阪現代芸術祭プログラム)として始まり、市の予算と単年度の助成金を組み合せながら事業を展開してきた。現代芸術のインフラ整備を目指した本事業は、単なる「支援ではなく、投資として」かつ「消費ではなく、生産へ」という考えをもっていた。
 しかし、行政内ではなかなか認められず、事業名が「現代芸術支援事業」となったときは「支援ではなく、協働で仕事をしている」と他のアート活動を行うNPOと共に声をあげた。

2. ブレーカープロジェクトのはじまり
大阪の新世界・西成を舞台としたのは、スタッフとして関わるremoの拠点がフェスティバルゲートにあったため。自分で選んだのではなく、偶然スタートすることに。第二次大戦の大空襲から復興を遂げるなかで労働者の街となった場所。駅からは近いけど、さまざまな問題を抱えた場所。
 街の人も知らないなかで、初年度は4名のアーティストとプロジェクトを始める。街とは距離があり、かつ街の労働者を排除するようなデザインをもったフェスティバルゲート内でプロジェクトは展開された。街の人をつなぐ仕組みがつくれなかったことが課題となる。
 アーティストの藤浩志さんのかえっこは小学校を会場として事前説明会も含めて開催。プロジェクトは「飛び火効果」を生み、やがて地域の女性会が始めるなど、当初思い描いたものとは違う展開を迎えてきた。

3.対象をこどもに特化した展開
 小さな街にも派閥があり、それを外部の人間が飛び越えて活動することで断絶をつないでいく。街の人との関係の深さを実感し、地元の人をつないでいくことができると実感が生まれてくる。現場の対応や事務局の強化が課題に。
 「アートスクール」という名称でこどもに特化した6つのプログラムを展開。年間を通して地域の小学校や児童館を順番に回ったことで、前のプログラムを検証し、課題を抽出し、改善を行っていくことができた。
 基本はアートティストの欲望から発生したものをこどものために展開していく。ワークショップのクオリティやこどもの自由度とのバランスがあるプログラムづくりが課題に。1日数時間だけのプログラムに限界を感じつつ、1年間こどもと関わることで、ふたたび地元の住民が参加できる仕組みをつくることへプロジェクトは向かう。



4.参加型アートプロジェクトの実践
街の人がプロジェクトに参加し、一緒に作品をつくっていき、街の歴史や魅力を再発見していく。プロジェクトの原点につながる考え方のもとで、4組のアーティストとプロジェクトを展開。これまでになく地元の人々を巻きこむことができた。
 一方でプログラムを詰め込みすぎたことも反省に。地域に根ざした作品を生み出していくには時間が必要、「参加」ではなく多様な「関わり」をつくっていくことのほうが自然、地元の参加者が固定化していないか、を考える。

5.単独のプロジェクトを1年間かけて
2007年は、きむらとしろうじんじん「野点」を1年かけて開催。半年かけて地元の人と準備を始め、説明会を多数開催し、新たな人との出会いや地元の認知度をあげることができた。協力も多岐に渡る。
 この頃から、事業を回すだけでなく、目的や評価を考えていく。それまで事業をまわすことに精一杯。市の事業の大枠が崩れていくタイミングでもあり、方向性や展開を再考。

6.街をつかう、街をつなぐ、街を見せていく
次年度は悩みのなかで始まり、継続可能なアートプロジェクトの実践は可能か、というテーマに取り組む。藤浩志さんは何も決めずにスタートし、色んな人に関わってもらい、とにかく街にあるものを使っていく方法を取った。新たな視点で街を発見し、課題を再確認し、これまでと違った地元とのつながりができ、教育機関との連携も生また。街を使っていく、街をつないでいく、街を見せていくという方向性も生まれる。

7.多様な価値観が共存する意義
再開発で古いものが取り壊され、日本はどんどんきれいになっていくけれど、ブレーカープロジェクトのエリアは人の生活の痕跡が感じられるような場所。改めて街を見せていく。「絶滅危機・風景」を開催。
 西成区の予算で評価、検証の為の報告書を作成。聞き取りを行ない、数値では評価しにくいものをどう評価していくのかを考える。アートが街に入り、どう地元の人に受け止められ、変わっていったのか。聞き取りの結果、はじめは会話が成り立たず平行線の議論しかできていなかった人の新しい価値観は入ってくることで2年での関係の変化や、将来への活動のメリットを見いだすこと、地域づくりとして考えていくことなど、継続してくることで見えてくる多様な価値観が共存していくようなアートプロジェクトの意義が見えてきた。

8.今後のこと
 現在は、これまでの活動を検証し、評価し、新しい目的を立ち上げ、この場所で違うかたちの継続はないかと考えている。まだまだ継続することで、もっと充実したものになっていくはず、持続可能な街との有効な関係をつくっていくかを悩みながら、今年のプロジェクトを展開している。



Ⅱ.質疑

Q 行政という立場の人はこれからも必要だろうか。それとも地元の人達との関わりを深めて、不確定なものをもっている行政の方とやらないというのか。
A この事業は公共事業であるべきだと思っている。行政の文化事業として継続の道を探りたいと思っている。支援されるのではなく、一緒に大阪の文化を考えていく。するべきことをしていくような関係がつくられるべきだと思う。いまは難しいけれど、今後考えていかなければならない問題。

Q 助成金と協働でやっていく、それとも教育システムに入れてしまう、地域社会のシステム化くらいで考えていくのか。
A そこは難しいところ。仕組みのなかにいれてしまうとアートプロジェクトの目的がひとつになってしまう。そこで意味がなくなってしまうかもしれない。システム化をしていくほうがいいという気持ちもあるが、怖いというところもある。今後の課題。

Ⅲ.感想

雨森さんは、率直に毎年の課題やプロジェクトの実情を交えながら、ブレーカープロジェクトの軌跡を丹念に追って話をしてくださいました。「走りながら」や「事業を回すので精一杯」、「単年度予算」と言いながらも、絶えず自らの実践を問いかけ、そこから見出した課題へ対応するように進められてきたプロジェクトの展開を聞きながら、アートプロジェクトの継続すること意義や自らの立ち位置を検証し、次へ生かしていく自己評価の重要性をあらためて感じることができました。

研究会7|議事メモ

第7回TARL評価ゼミ研究会
日時:2011年2月16日(水)19時-
場所:小金井アートスポット シャトー2F
内容:
1)ゼミ発表・小金井評価MTGの振り返りとディスカッション
2)記録集について

以下は、ディスカッションの話題を中心にまとめています。

家族型モデル
・マトリクスは、対立軸が何なのかを書かないと意味ない。目的志向の反対は仲間志向?
リーダーシップも有る・無いではなく、たとえば民主志向?
・このツールに対してマトリクスが必要かは分からない。プロジェクトの過程で、個々人がイメージを浮かべる方が必要では。
・マトリクスがあると外には見えやすくなる。
・カテゴリーをどうやってつくるか。ボトムアップだとぐちゃぐちゃになりがち。やってる人には意味あるものになるけど。トップダウン式だと外への説明はしやすいが、無理がある。両者の接点はどこにあるのか。
・評価の入り口にはなるけど、やり過ぎたらまずい。誰がどう思ってるか見えすぎると角が立つかも。
・この方法は、プロジェクトをカテゴライズし、さらにそのなかの個々人の役割もカテゴライズする。
・何が分かればできるのだろう?個人的なこととかもわかってるから書けるのか、それとも1週間くらい入っていってみるくらいで書けるのか。
・1週間くらいならできるのでは。普段の話言葉のなかで、象徴的な言葉として出てくる。
・同じカテゴライズの相互評価なら、ピアモニタリングがやりやすい?
・手法としてピアモニタリングが合うタイプと合わないのがあるのでは。家族なら合うけど、カリスマ型は合わないなど。
・マトリクス上で別グループがピアモニタリングをするとどうなる?
・お互い学ぶ部分はあるのでは。
・家族からプロボノ型への変化はある。
・プロボノ型は、プロとしてみんなで仕事を持ち寄る。鍋をつつきながら関係を醸成することはできない。
・問題点や終わり方が見えてくるのでは。例えばカリスマがいなくなったら終わってしまうとか。より深くその組織を分析するための軸が決まってくるのでは。
・カリスマ型は拾う人がいないと暴走する。
・プロジェクトの終わり方の研究は面白そう。組織崩壊の研究?
・お金が尽きたから終わるという定説は本当?
・目的を達成して終わったところはあるのか?
・アートプロジェクトの場合、目的達成、ネタ尽き、マンネリ化は、ほぼ同じ意味では。あと、疲弊感。
・目的って変えられるから、続けられるはずなのでは。
・目的達成は、明確な目標があれば。

プロジェクトの目的とお金
・はっきりした目標を掲げない場合も多い。自分探し型?
・モラトリアムだとしたら、何のモラトリアム?
・どうしたらいいのか答えがないからアート?お金ばらまいてもだめなのだから。
・手詰まり感が出てきたからアート。
・アートやってもだめなときの逃げ口ってどこなんだろう。
・再開発助成金の地域を活性化するアイディアが求められる場面で、「今はアート的なものがすごく有効だと思われる」「ただしもうちょっとパンチ力がほしい」といったコメント。
・某アートプロジェクトが受かる。他はどうして落ちる?
・プレゼン資料がワードをつかえてない例など。
・アート関係者がプレゼンうまい?
・思いもよらないことを言ってくるというのは大きいと思う。
・再開発とか言っても、それが去った後に何があるか分からない。
・再開発しなきゃいけないのは、老人が孤立したり、子供が少なくなったり、商店街が潰れるといった問題があるから。100万円で解決しようと思うのがどうなのか。目くらまし。
・アートプロジェクトについて書かれた論文読むと、万能薬みたいに書かれている。
・そもそも薬ではない。紫キャベツの汁みたいな。撒いて叩くと浮かび上がってくるみたいな。
・万能薬っていうほどお金もかけない。
・安上がりだからいいのでは。
・『公共劇場の10年』。人件費などを賄うには、事業拡大しなければいけない。それを維持しなくてはならない。実績ないとできないから、実績をつくる。
・電通に頼むような感じで、キャッチコピーとかまで依頼がくる。
・それをやらないと、機会自体ができない。そうなると、専門性が突き詰められない。
・ミッションの下でやる一方、公としての使命。ダブルスタンダードを迫られる。バランスをどうやっていくのか。
・舞台芸術の価値としてやってるのに、一部が占有してるというクレームが入ったことによるいざこざ。
・無償で貸すって公共団体しかできない。NPOは?
・NPOは公益団体?
・結局は政治的なやっかみ。
・西の岸和田(文化会館)、東の水戸。岸和田は市民参加をやった施設。一方、水戸芸は芸術性を突き詰める専門性をもった館のモデルとしてスタート。
・途中で方針が変わって、海洋堂展がその最たるもの。今までの水戸芸ファンからは不評で2ちゃんがフィーバー。巡回展だったこともあり。

公共圏
・公共とは何か。アクセスの公共性(どのくらいの人が参加しているか等)はあるが、そもそも演劇・芸術の公共性の議論がない。専門的なものを提供するという意味で、公共劇場の意義が発揮できるはず。守りの評価はアクセスの部分。やってること自体の価値がすごく重要なんだよっていうのをどう言っていくのか。
・演劇だと言いやすい。社会で何が問題なのか、人間の存在について考えるようになる。形式的に、演劇とかだと見えやすい。
・リクリット・ティラバーニャの作品について、「くそくらえ。誰がつくったって同じじゃないか」と言う人もいる。日本の社会において、公共圏が実現されているということを芸術の場で実感するのって難しくないか。
・日常感覚にある芸術と、上から押し付けられる公共概念がアクセスしづらいのでは。めぐりめぐってあなたの生活を支える社会の健全性を保っていると言っても、今日の昼飯に困ってるんだと言われると、反論難しい。
・そもそもやる側が、公共圏を支えるものとしてアートプロジェクトを捉えているか分からない。
・井戸端会議や祭りといった日本型公共圏を追及しているからでは?
・それはそれでいいんだが、公のお金を使うとなると、中身の公共性という議論が通じなくなる。祭りはみんな楽しければよいとなる。
・某プロジェクトで問題になった展示があった。
・一般市民からのクレームでなはなく、市役所内で、いかがわしい場所と言われている。
・内部の問題。議員の人は、個人的に不快だと。
・「芸術なんていかがわしいものですからね(笑)」みたいになってしまった。
・別の某プロジェクトでもあって。その土地出身の作家。作品としては面白いが、市民からクレームがあった。主催者ではなく区役所に。
・自主規制で注意書きはしたが、書いてもなおクレームはきた。
・企画会議で、「これだから地域に密着していないプロジェクトはだめんなんです!」と言う人もいた。
・「(笑)」となったのが危ないと思った。自分自身が意味をもってやった結果ではなく、みんないかがわしいものと思って「(笑)」となっちゃってる。みんなそう言わないでセーブしている。
・セーブするのは良識ではなくて?
・個々の人と話してみると、それが、来年やるかどうかという部分にも関わってる。そういう絵が出るやり方ってどうなんだ、と思ってる。
・市民との接点を考えると、内容で市民向けなのか、手法として市民参加なのかがごっちゃになっている。
・自分たちがプレゼンテーションするようなものなのかという疑念を、ある程度みんな持ってる。
・次回から検閲しようとなったらどうするか。
・実際、「事前に中身の部分を相談する」ということが入りそうになった。
・それをやってしまったら全く意味がないですよと言って止めたり、説明はするけど、現場では個人的な感情の部分がある。
・なぜそれをやるのか議論もできるのだが、感情的な部分も入ってくる。
・公共的な人格として振る舞えばいいのでは。自分が不快だと思ったから、個人的な感情でだめだと言ってしまうことが危険だと思う。パブリックな意味が有るか無いかは、違う次元で議論しなくちゃいけないのでは。
・個人的な部分だけでなく、公的な議論する場をつくろうという意識の部分はいいんだなと思った。そのレベルで議論が積み上がるか。
・見に行った議員さんは公には黙ってるのに個人的に言いに行くというのは、言わざるを得ない感情がある。間接的に影響力は行使して、健全なものになるといいなと思っている。
・ディレクター側は、作品を選ぶとき、そういうことは考えない?
・選んでやってる。説明するときはそういう説明すればいい。

アートプロジェクトの戦略と問題
・アートプロジェクトは、ある種戦略的にやってきた。コアにアーティストの作品があり、プラス色んな人を巻き込む。手続きの方に目を集中させて、クオリティーを担保しようとしてきた。そうしてきたから、これだけ大きくなってきてるのかなと。
・正面突破は通用しない?
・中途半端だと打たれて終わるけど、突き抜けて提示しちゃう。
・日本の戦略からすると、それはないんじゃないの?ってことでは。パス回しパス回しが手段なのでは?
・カリスマ型は、ど真ん中の部分を見せて伝えちゃう。決定力不足に悩むアートプロジェクトにきたエースストライカーみたいな。
・カリスマみたいな人が市の人と関わると出て来る問題。
・どう説明を積み上げるのか。
・見せ方やチラシのつくり方が今回は不足してた。丁寧なやり方はできるから、事前のコミュニケーションプロセスがあった方がよかったのでは。
・方法をちゃんととれてなかった。中身と出すときのコントロールを、組織ができなかった。全体のディレクションはディレクターで、動くのは事務局。動く側がディレクターのスピードについていけなかったのか。体制が整っていなかったのか。
・作品としてあれがどうだったかということは全く問題にならない。
・ある作家さんは「これはないよね。これやったら人来ないじゃん。」「僕もハードにやるけど、こういう場ではやらない。」と。
・健全に鑑賞されることっていいのか?それがバンバン出てるのが健全なのか?検閲されるよりは健全なのか?
・一つの主体によってコントロールされることが問題なんじゃないか。
・複数の人のなかでディスカッションが生まれてくればいいのでは。
・ディスカッションの場になるはずだった評価の場で、芽生えつつある公共圏の芽が消えちゃった。
・ディスカッションのポイント自体が共有できるのか、というのがポイント。
・好き嫌いで別れて妥協点が見えないという状況になるのか。
・それを言うことに対する批判は簡単で、啓蒙的。ディスカッションすることが大事だって言わないと、芸術の公共性は成り立たない。それが存在するかっていうのはある。
・日本の公共圏の概念で言ったら、村八分。
・事前であれば、そういうディスカッションって成立するのでは。
・一回出してしまうと、出した側にはその責任がある。出された側は、傷ついたとして、その経験を一生懸命伝えようとするから成り立たない。
・事前ディスカッションもいいことはあると思うが、出さないと意味ないのでは。
・ディレクターや芸術監督が成立するか、ということと関わる。
・内覧会を初日に行った。その時点でだめだと思った人は、議論自体参加しない状況になってしまう。
・日本人の感覚として、好きか嫌いの二択で。嫌いだけど議論に参加しようという選択肢がない。認めたくないけど、議論には参加するよっていうメンタリティーが残されてない。
・なぜ不快かを明らかにしてくことで、不快ではないかも。
・表現の自由に基づいて発言して、表現の自由に基づいて反論すればよいのでは。

マイナス面・ネガティブなこと
・マイナスのことを語る言葉が鍛えられていないのでは。
・ディスカッションが良しとするのも、そもそも西洋的な考えなのではないのか。闘って公共圏をつくるという考え方。
・発話しないとそこにいないことになる。
・発話しない人たちのための公共圏=「空気読め」?
・察し合いの公共圏はあるけど、芸術に馴染まない?
・アンケートで、不満じゃなくてアドバイスくださいと書くことと通じるのでは。
・マイナスの声はどうやって拾うのか。
・インタビューもネガティブなことを言う。
・ネガティブな意見が入った方が、より客観性が高い評価になるっていう信仰?
・暗黙のうちにやめてしまうのがよくないのでは。
・意見の複数性を確保できるか。
・色んな意見を集める手法はコストがかかりますよ。ということは言える。交際費としてもすごくかかりますよ、と。
・ネガティブなことは言ってもしょうがないと思ってしまう。
・同調しやすいのか。
・マイノリティのときは言わない?
・控えめのソーシャル・キャピタルの発見。当番制でまわってくる。他の人がやってるから、自分もやらなきゃという感覚的な部分。
・ネガティブなことを言わないことで関係を保っているとかもある。
・議論するということを作品の中に組み込んでしまえばできるのでは。
・作品を制作するという目的があるから議論しやすい?
・作品を見るぼくらのなかには、議論が生まれ得ると思う。
・それは作品の評価の中に入っちゃう議論。
・問いを発されているだけで、それに応え、答えに対して答えるみたいな議論は発生しない。それを議論と呼ぶからには、条件として、お互いに突き合うというか。
・アートプロジェクトで言われる「議論」て、成立するまでに色んな人が関わる。その議論の部分を、作品全体としての議論とすり替わってしまうのでは。作品ができるまでに議論しちゃってるから、その後が見えなくなってる。

アートプロジェクトのメタレベル
・メタの次元にいける人がいない。
・関わった人達はそこの次元で動いていて、アートプロジェクトがどうだったのか、という次元にはいかない。
・アートプロジェクト同士を比較すると、好き嫌いの話になってしまう?
・何でアートっていう必要あるの?という議論が出てくる。
・アートプロジェクトの質を捉えるということと関わってくると思う。
・なんでもかんでも議論と言わない。まずdiscussionとarguingを区分けする。
・アートプロジェクトが目指してるのは、問題があるからどうしようかと悩むことではなくて、地域とはどういうものであるべきかを、日常的なレベルから超えて気づかせてくれるということのでは。
・色んな人が関わってくると、いかにうまくやっていくか、という価値も出てくる。
・そこで区別がつかなくなる。色んな交渉する。そうじゃない方も目指す
・processとresultを履き違えているのでは?と発言することのマイノリティ化。
・他のプロジェクトとの比較をもてるか。
・アートプロジェクトは、下の方を解決するためにやってる。上の方を求めてない。その人たちにどうやって伝えるかっていうのは無理感がある。
・初めてアートプロジェクトに関わる時は、信念になるようなものって経験としてない。積み上げないと。色んな人が入ってやってる面白さで完結してしまう。それが価値?
・下の方の議論ばっかりやってるけど、アートは曖昧だから下の方の議論続けるのに向いている。それがクオリティーになってくる可能性も。
・グダグダ感をうまくつくるクオリティーなのか。
・煮詰めても、一向に上にはいけない気がする。
・みんなが見えなきゃいけないものなのか?
・ディレクションの構造。こういう役割をやる人が必要で、承認できるかどうか。
・そういうことに関心ある人が一定数いないことが問題なのか。
・ディレクションや評価する人が、そういったディスカッションできるか。こういう場が必要ですね、という認識をつくることが大切なのでは。
・日本的な土壌で公共圏難しい。
・どういう議論が必要とされているのか、わからなくてもいいから見る。
・見える議論は、それ自体無駄ではないが、社会的問題を孕んだ作品が出せず、結局ジリ貧になる気がする。
・そういう現状を見て、あえて出すという選択をする。
・議論できないと、パッと消えてしまう。

今後の方向性
・やったことをいかに他者に説明できるか、それ以前に作業が必要。組織論や、価値って何だっていう話が出てきたり、動き方総体として、評価がうまれてくるのかなと。
・評価には調査が必要。表現するまでには色々やらないとダメ。あらゆる記録をとっておかにといけない。比較対象の分析や歴史的な視点も。
・評価だけの議論ではないので、評価の枠を外して議論する必要。
・実践の場にいかすときのバリエーションとして、具体的には出ていないので、議論のための議論になっていないか。現場に使える話題になってるのか?

2/15 第8回評価ゼミ(最終回)のお知らせ

あっという間に7か月が過ぎ、評価ゼミも明日で最終回となりました。
明日は、ゼミ生によるプレゼンテーションです。オープン講座となりますので、ご関心のある皆さま、ぜひご参加ください。

【第8回評価ゼミ】
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■日時:2010年12月14日(火)19-21時 
■会場:Tokyo Artpoint Project Room 302(アーツ千代田3331内)
■内容:プレゼンテーション&講評

■プレゼンテーマ:「私が実践してみたいと思う評価」
本講座の目標=「評価に関係する“なぜ?”を徹底的に解明し、最終的には、受講生ひとりひとりが自信をもって、 “自ら実践してみたいと思う評価”のあり方を確立する」に照らし、「自ら実践してみたいと思う評価」について、ゼミ生が一人づつプレゼンテーション。

■ゲストコメンテーター: 
太下義之さん(三菱UFJリサーチ&コンサルティング 芸術・文化政策センター主席研究員/センター長)
芹沢高志さん(P3 art and environment エグゼクティブ・ディレクター/AAF事務局長)

■ピアモニタリング
プレゼンテーションだけではなく、第5回ゼミのテーマだった「ピア・モニタリング」「ピア・レビュー」も実践したいと思います。ゼミ生同士で質問や感想を出し合ったり、一般のご来場者からプレゼンに対するコメントをフィードバック(用紙を配布)いただくような形で進めたいと思います。
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東京文化発信プロジェクトの平成21年度事業に対する評価

東京文化発信プロジェクト室の石田さんが、下記資料をゼミMLで教えてくださいました。共有まで。
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評価ゼミの中でも何回か話題に出していただいた、
東京文化発信プロジェクト(「東京アートポイント計画」はこの中に含まれます)の
平成21年度事業に対する評価が公開されましたので、情報をお伝えいたします。

■サイト「東京都の文化政策」
http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/hyougikai/ 
 
■PDFファイル「平成21年度東京文化発信プロジェクト事業の評価結果」http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/hyougikai/21hyouka.pdf  

よろしければ、ご覧になってくださいませ。
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