研究会5|議事メモ

第5回TARL評価ゼミ研究会
日時:2010年12月22日(水)19時-
場所:Tokyo Artpoint Project Room 302(アーツ千代田3331内)
内容:
1)前回の議論の振り返り
2)これまでの議論の図式化

以下は、ディスカッションの話題を中心にまとめています。

■ 個人まとめ:石田(佑)の図
・ ステイクホルダーをプロジェクトの運営者中心にまとめた。
・ それぞれにどんな指標がありえるのかを図式化した。
・ 行政を大きなもの(国など)と小さなもの(自治体など)の2つに分けた。
・ 今回は不参加者へのアンケートを考えずに描いてみた。
・ アーティストからのプロジェクトの評価が一番大事だと思う(アーティストに面白い人がいることで地域づくりへもつながっていくのではないか)。
・ 自己評価は入れるべき。プロジェクト運営者がそれぞれのステイクホルダーに伝えることを第一条件にしたい。
・ アーティストにプロジェクト終了後、「本当はこうしたかった」ということを聞く。あらためて場を設定することからポイントを捉える。
・ 観客アンケート:TwitterやSNSを使えば気軽に意見が聞けるのではないか。
・ 財団、行政はエピソード評価などいろいろあったほうがいいが、コストを理解した上で、どういう人からの意見がほしいかを事前に決めておければいい。そのうえで、投入できる資源を勘案して指標を設定する。
・ 担当者は現場でのヒアリングを行なう。できれば行政や企業の担当者がボランティアや地域住民と話をする機会をもつ。
・ 企業や財団は醸成対象者を選ぶ(選考が事前評価)。市区町村レベルだと打合せや日常的なディスカッションがあるから、いろんな材料を出す必要はないかもしれない。
・ コストの範囲内での評価について事前に関係者で決めてやること。アーティストからの事後評価をやるようにして、ステイクホルダーに伝える。
・報告書は地域住民などは読まない。行政担当者などへの説明責任の材料となっていくため、ここで評価指標を決めていけばいいのではないか。
・ 評価はそれぞれのパート(アクターとの関係)に分散されているのではないか。

■ アーティストと行政の評価
・ アーティストから不満を聞く。それを行政に伝える。アーティストの要求を無視してはいけないということを主張してほしい。
・ 率直に難しいと思う。その難しさがどこにあるのか。
・ 言葉がそもそも通じない。生きている言葉の世界が違う。
・ 客観的な評価ではなく、責任のなすりつけあいになってしまう危険性。徹底的にやってしまうと「来年からはやめてしまおう」となってしまう。
・ アーティストが不満を言うこと=作品をよりよくすること。行政が思うことは「アーティストがベストを尽くすのは前提として、社会にどんな意義があるのか」ということ。そもそも軸が違う。
・ 行政はアーティストという存在に不信感を抱いている、と言われる。多くを要求するし、約束は守らない、という。不信のシステムの真ん中にいる感じ。
・ 神山に行ったときに「評価はしていない」と言われた。行政と密なコミュニケーションができているから、それは必要とされていないのか。
・ 異動が多いと紙の資料でしかコミュニケーションがとれない。
・ 行政にも、担当者なのか、自治体全体なのか、と層がある。

■ 行政の思い描くイメージ
・ 行政が思い描いた地域住民像とのギャップがあるのではないか。たとえば、現在のコミュニティの状況があって、いい方向にもっていこうとする。そこで、思い描いているコミュニティ像が違っているのではないか(アーティスト像も同じではないか)。
・ そこから、かなり恣意的な評価軸をもってきてしまうのではないか。しかし、それを切った場合に、行政からお金は出なくなるが…。
・ いまはプロジェクト運営者中心で描かれているが、主体が変わることで違った描き方になってくるのかもしれない。
・ もし、ロールプレイング・ディベートをやるならば、自分の本当の立場とは違うものをやったほうがいいのではないか。

■ 広告代理店的なものとアートプロジェクト
・ 行政が一番やりたいのは、広告代理店に頼みたい。広告代理店ほどクオリティは高くないけど、それに近いことがアーティストならばできるかもしれないという思惑。
・ それに乗っかって違うものを提示しようとするアーティスト。行政とアート側が相互依存の関係。
・ 全部のジャンルで起こっている出来事ではないか。悪しきデフレスパイラル。そこから軋轢やストレスが生まれてきている。バブルの頃は代理店に発注できていたのに…。
・ それを分かって乗っかっているのか、本当に乗っかってしまっているのか。プロジェクト運営者の倫理観や、その価値(評価)にかかわってくる。
・ 上手く説明をし、場をつくって、アーティストの自由を確保していくこと。

■ アートプロジェクト・リテラシー
・ 見慣れていないとアートプロジェクトのよさが分からないかもしれない。アートプロジェクトにリテラシーが必要になるのではないか。
・ 行政担当者が現場を見て、面白さを理解してくれれば、評価担当者はいらない。でも、実際現場に来ても分からない(来場者数くらいしか)。
・ 継続や蓄積があれば、教育されていく効果はある。それが評価のいらない状態なのか(市区町村レベルで評価がいらないということ)。
・ たとえば広告代理店的なものを目指した効果から、がくんと落ちてしまったら、担当者はどう対応していくのだろうか。
・ 広告代理店的なものを求めなくなる。そうじゃない面白さに価値を転換ができるかどうかが重要になるが、そのときに別の評価軸を出さなければいけない。
・ まずは3ヶ月続けられるかどうか。その上で多様な説明をしていく。
・ 評価の手法の蓄積=あれこれ手をつくして説明されてきた歴史の地層。
・ 1970年代に叫ばれた「行政の文化化」=行政が文化を扱うだけでなく、行政の自己変革の視点もはいっていたはず。手法は複雑化しているけど、根本的なところは変わっていないのではないか。
・ 地層のような評価軸は、突き詰めればプロジェクトを守るために、恣意的で無根拠になってしまうのではないか。
・ 説明したい意味に向けて方法論を変えていくことに問題はないのでは。
・ 資本をアートに投入するということ(根拠がないものを信じなさい)ということ。

■「面白さ」をどう想定するのか/クリエイティブな手法とは
・ 多様な評価手法は、違う現実を描くための手法。関係を切り結ぶ相手とどういう現実を描けばいいのか、という手法が沢山あるということ。
・ ただ、この研究会の問題意識には「思い描きたいはずの像が従来の手法では描けていない」ということがあったのではないか。
・ これまでは「違う現実を描くこと(それで説明すること)から、こっそり実現していく」か「思い描くことができる個人がやってしまう」しかなかったのではないか。
・ アートプロジェクトは、一番話し合いたいところを話しあってしまうと実現しなくなってしまうのではないか。何かしら置き去りにして走りだしているのではないか。
・ そこが「アートの面白さ」やゼミでの「アートは評価できるのか」の議論で出てきたのではないか。でも、そうなると、見切り発車なのか、クリエイティブな方法なのか、は分からなくなってしまう。クリエイティブな独自の方法が必要だけど、何とでも言えてしまう。そこの線引きをどうしていくのか。
・ 一番遠いと思われる行政とアーティストの不信感を埋めるためには、そこをやらなければならない。

■ アートプロジェクトの面白さ
・ 表現を実現するまでの行政、地域住民やアーティストの交渉プロセスでの新しいヴィジョンをつくっていくことの面白さがあるのではないか。アートプロジェクトの形式としての可能性(アーティストの自由を実現するという従来のアーティスト観ではなく)。
・ そこの面白さに気づき始めたアーティストがいるけど、それこそがワークショップや広告代理店的な盛り上がりとして捉えられやすい。
・ その面白さを追求しながら、一方で説明をして場をつくっているプロジェクトが成功しているのではないか。
・ アートプロジェクトのマスターピースが生まれてきたのではないか。マスターピースをマスターピースとして捉えた言葉がないために、使われていく現状はあるのではないか(批評がない?)。
・ アートプロジェクトの作品が地域から離れても成立してしまうことへの疑問。
・ 「どこでもできること」(=アートのサーカス化)は悪く言うべきことなのだろうか。むしろ、地域ごとにマイナーチェンジはあったとしても、そうならないとマスターピース化しないのではないか。出力仕方は(地域によって)違うけど、フォーマットは一緒。第3者から見れば、同じように見える。
・ システムとしてアート作品であれば、そういうものなのではないか。
・ 「どこでも同じ」という批判は、アートプロジェクトの見方に慣れていないとも言えるのかもしれない(細かく見ると本当は違う)。

■ アートプロジェクトと地域
・ アートプロジェクトみたいな形式が「関係性」や「システム」というキーワードから作品が生まれてくることにつながっているのに、結果的に見えてくるときに、地域に密着していく作品の形式になっているためにそう見えてしまう。
・ 地域とアートプロジェクトを結びつけるのが、ミスリードになるのかもしれない。かならずしも「地域」と「アートプロジェクト」はイコールではないかもしれない。
・ サイトスペシフィックのアートとしてのアートプロジェクトなのか、リレーショナルアートとしてのアートプロジェクトなのか。アートがどう変化したのか、という議論がない。
・ アートプロジェクトが増えたのはミスリードのおかげ。危ういと言われるゆえんだが、明確に定義付けをしたら、呉越同舟の船が沈んでしまう。
・ アートプロジェクトの意義でよく言われるのは、曖昧だから色んな人が関わる余地があると言われる(商店街祭りではなく…というとき)。ミスリードを上手く使っているところはあるかもしれない。
・ しかし、昔ほどミスリードが使えなくなってきているのではないか(アートプロジェクトインフレ、ユーザーの気づき)。
・ ここで本当の意味での「アートの価値」を説明していけるかどうか、分岐点なのではないか。広告代理店的なものじゃないんだという価値形成まで斬り込んでいけるのか。

■ 社会とアート
・ 行政は最初の推進をしていくけど、あとはNPOなど自律的に展開していくことがありえるのではないか。
・ それでは、アーティストも運営する方も食えないのではないか。本来は市民の集合的な代表としての行政のはず。政策が地域住民を求めるものを提示するのか、潜在的なもの(少し飛び抜けたもの)を提示していくか。後者は多数決では弱くなるのでは。
・ ドイツでは「芸術の自由」がある。『ドラマトゥルク』もそのトーンで書いてあった(「見えなくなる職業」のドラマトゥルクはそれがないと成立しないという話から)。日本では、芸術のための芸術にお金が出るようになっていないのでは。

■ 個人まとめ:大川の図
・ カウンセリングを面白いなと思った。外部から言われることは、現場でやっている側は認識できている。上から目線でアドバイスするよりも(親のように色々と言うより)おじいちゃん的な存在が必要。
・ がっつりアドバイスするより、方向性を見出してくれるような人。
・ アートプロジェクトの経験を積んできたマスターのような人。
・ 自分とフラットに話をしてくれるけど、アドバイスをしてくれるような存在。
・ 色んな立場の人がいる組織は強い。みんな同じではなく違いがある(他者性)。
・ お母さん的(見守ってくれる存在)→もう少しこうやったほうがいいよね、と言ってくれるような存在。
・ おじいちゃんは業界が成熟しないと出てこないのではないか。
・ 企業のようなダイレクトに利益追求型ではなく、ゆるいアートプロジェクトだから出てくるのではないか。
・ プロジェクトのコンサルをするときに、家族構成は使えるのではないか。

■ ボランティアの運営
・ お母さん的な存在が出来たことで、一気にボランティア組織ができた例。上から目線ではない、役割はフラット。テンションは同じだけど、経験などが違う人だった。
・ カウンセリングが必要とされたのは「均質な人が集まりやすい」という問題だったのか。性別、年齢層が均質化せずに異質なものが入ってくるといいのか。
・ ボランティア募集の段階で、注意すればいいのではないか。一方で多様に募集すればいいわけではない。ばらばらだと、よそよそしくなってしまう。
・ 上手く配分できる「ボランティアの薬剤師」のような人が必要か(ボランティアバンク、派遣業…)。

■ 内堀の評価〜アート事業と投資
・ アートプロジェクトで外側の評価っぽく見えるんだけど、内側に食いこんでいるものってあるのだろうか。内堀の評価って何か。年末の展覧会ベストは内堀か。
・ アーティスト・イン・レジデンスって内堀に集中したものなのではないか。どんな評価をしているのか。どんな要請のなかで出てくるのか。
・ レジデンスにすると参加者数とかが求められないのではないか。そもそもの目的が投資なのではないか。
・ アートプロジェクトは投資だと思われていない。消費だと思われている。そのため、即時的な効果が求められる。
・ 美術館だと作品購入は投資になる。アートプロジェクトは消費=即評価。
・ 投資的な効果ってどう表現されるのか。現実的には捏造に近くなる。道路は事前評価に地層を組み上げていった(つくるとどうなる、という説明)。
・ こども向けのプログラムがやりやすいのは教育とオーバーラップしやすいから(投資的な効果が分かりやすいから)。効果が曖昧なもののほうが簡単か。
・ アートプロジェクトは社会的なヴィジョンを語れていないのか。アートプロジェクトがどんな財として捉えられているのか、は重要なのでは。

■ アートプロジェクトの歴史
・ 日本最古のアートプロジェクトとは何か。何を最古として考えるのか。
・ 牛窓国際芸術祭(1984年〜1992年)、白州か。
・ 加治屋健司さんの論文 http://www.art.hiroshima-cu.ac.jp/~kajiya/research.html#works
・ 橋本敏子さんの本(『地域の力とアートエネルギー』)を読んで、この15年で何が変わったのだろうか、と考えさせられた。アートプロジェクトは先行例を気にするではなく、走りだして始まった。そして、走り続けた15年だったのではないか。
・ 美術館が増えてきたのと同じ流れなのではないか。仕組みが出来ると次々とできる。90年代はアートプロジェクトが万能薬のように思われていた。

■ 個人まとめ:石崎さんの図
・ 評価を光にたとえてみた。プロジェクトのコア(イノベイティブなもの)を守る傘がある。
・ 紫外線(まちづくりなど)と赤外線(経済効果など)と可視光線。可視光線が届いてほしい。
・ 光が届くのであれば、副産物として教育や地域への効果が出てくる。
・ たまにカウンセリングなど養分を与えるとより芽が育つ。
・ 光はなければならない。けれど、有害な光をいかに遮るのか。光=社会の厳しい視線。
・ いい光だけをイノベイティブなところに到達するようにしたい。成熟した葉であれば、有害なものから守ることができるだろう。
・ ひとつの傘にしなかったのは、説明責任がものすごく発達したときに、どこかの時点で質も高くなってくるのではないだろうか。
・ 評価により質の高まりも認めておく必要があるのではないか。
・ 芽が生まれるか、生まれないかは偶然に左右されることも多い。

■ 評価のコメントの行方
・ 行政から評価のコメントが現場に届かない。
・ 見せたほうが当事者も学ぶところが大きいのではないか。(外から)どう見られているかは分かるのではないか。
・ 評価委員の言葉を匿名で伝えることの意義は何か(部外秘の意味)。

■ 個人まとめ:石田さんの図
・ 外側への説明=社会への説明責任(行政の人が使わなければいけない言葉)
・ 内堀=面白いこと、クリエイティブ、攻めの評価、よりよくしていく評価。
・ 評価者は両方をつないでいく役割がある。
・ 組織として、制度としてどう実現していくのか。たとえばAAFのようなアンブレラ型の方法。
・ 制度自体を組み替えることで、新しい評価のあり方があるのではないか。
・ 新しいファンドをつくることで、助成金の仕組み自体をつくっていく方法。たとえば、情報公開による認証制度を行っている京都地域創造基金の例。

■ 質的な材料の扱い方
・ (質的/量的など図式化することで)質的/定性的なものに対する態度を考えさせられた。対面インタヴューでも、ひたすら感動を引き出そうとしてしまう。
・ 第三者がいいかもしれなけど、なかなか口が重くなる。だから、おじいちゃん的な存在が必要なのか。期間をあけてインタヴューが重要。

■ 今後のこと
・ 今回の個人まとめで上手いこと分担が出来てきたのではないか。
・ アクターの図、攻めの評価のなかみ、キャベツモデル、全体的なスキームという流れが出来てきた。
・ ベースの考え方が共有されてきたので、個々の関心を深めていけた。

■ 次回の進め方:個々のテーマを、もう一段階を深めていく。
・ アートプロジェクトの評価におけるアクター。アクターごとに説明が違う。どう違っているのか。どうあるべきなのか。中心のアクターが違うものを数種類つくったほうが面白いかもしれない。

・ 攻めの評価(カウンセリング・批評・ドラマトゥルク)、で「おじいちゃん役」という言葉は説得力があるのではないか。
・ 評価者の適切な距離のとり方、具体的な人物像。内堀の評価でどのような役割、経験、知識が必要なのか。パーソナリティから普遍化できるといいのではないか(スキルまで?)。

・ 説明する言語のグラデーションと時間性。キャベツモデル:1)ひとつのプロジェクトの成長モデル、2)社会をキャベツとして捉える(芯のプロジェクト、外側のプロジェクトで捉えるモデル)。
・ 新しいプロジェクトが生まれるジェネレーションも考える。
・ イノベーティブなものをどう判断するか。事後的にしかわからないのでは。
・ 図の意味を言語で深めていけるといいのではないか。光はおじいちゃん的な存在が見えてくると分かりやすいのでは。

・ 評価者でつなぐモデル、アンブレラモデル、ファンドレイズするモデル。
・ 具体的なスキームがコアになってくるのではないか。
・ ウェブにファンドレイズにあるものが増えてきているのではないか。

12/14 第6回ゼミの参考資料(事前連絡)

あっという間に今年も残すところあと20日。
以下、年内最後の「第6回評価ゼミ」の事前連絡です。
(ゲスト講師をお招きするゼミも、次回がラストです)

【第6回評価ゼミ】
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■テーマ:「アートプロジェクトの評価:継続・発展・振り返り編」 
■ゲスト講師:インディペンデントキュレーター/
     remo(NPO法人記録と表現とメディアのための組織)理事 雨森信さん
■日時:2010年12月14日(火)19-21時 
     ・19:00~20:30 雨森さんレクチャー
     ・20:30~21:00 質疑・応答、ディスカッション
■会場:Tokyo Artpoint Project Room 302(アーツ千代田3331内)
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第6回は、「長期にわたって行われているアートプロジェクト」が
どのように評価されているのかを考える回です。
継続と発展につながる「振り返り」とは?
「振り返り」による継続・発展の基盤づくりとは?

ゲストの雨森さんには、2003年から続く
「ブレーカープロジェクト」を題材にお話いただきます。
今春、大学と共同で「ブレーカープロジェクト」の評価をまとめたそうです。

配布資料は下記です。
・2008年度プロジェクトマップ
・2009年度プロジェクトレポート


長期にわたる活動の評価や振り返りは、
前回ゼミの「アサヒ・アート・フェスティバル」や、
同じく前回セルフリサーチ用に総括報告書を配布した
「大地の芸術祭」などの事例も参考になります。

それらとも比較してみながら、雨森さんのお話をうかがうと、
共通点や相違点が浮き彫りになるかもしれません。
楽しみですね。



【若林】

レポート|第5回「アートプロジェクトの評価:ピア・モニタリング編」

ゼミ生/増崎孝弘


11月16日、第5回の評価ゼミのテーマは「ピア・モニタリング」(ピアとは、同等・同格・同僚・対等者・・・といった意)。今回のゼミのゲスト講師には、アサヒ・アート・フェスティバル(以下、AAF)の事務局長を務める芹沢高志氏を迎え、氏がAAF参加団体のネットワークから相互評価・検証の仕組みをいかにつくり上げてきたのか、その過程における苦労、そして今後の展望など、貴重なお話を伺いました。



現在のAAFは以下の3つのまとまりがが中心となって動いている
① 期間限定の企画の集合体としての「AAF参加プログラム」
② 一度参加した団体を恒常的にネットワーク化し、新規の企画・団体を視察・支援したり、困難を協議したりするような人的交流の場としての「AAFネットワーク」
③ AAF参加プログラムの選定、AAFネットワークのマネージをする機関として、個人の集合としての「AAF実行委員会」


Ⅰ.AAFの歴史と評価の問題への対応

評価の問題が立ち上がるまで
2002年、それまでのアサヒビールのメセナ活動を集約する形で発足したAAFは、翌年にはトップダウン的な総合ディレクター制を廃止し、既存の企画を束ねていくフェスティバル形式へと移行。

それに伴い、全国から実行委員会への参加者が増加、ボトムアップ式で様々な企画が上がる。有限の資源の中で資金の分配・企画の選定などを行う制度的な枠組みの必要性が高まった。

2005年、公募制へ移行。70近い企画が集まり、30ほどを選定。選定された団体の相互交流支援のために設置された「ネットワーク会議」で、地域社会と向き合っている各団体の共通の問題解決に資する相互交流、ピア・モニタリングの重要性が明らかになった。2006年には「評価」という単語への現場の根強いアレルギー反応を踏まえ、「検証」という言葉をAAFとして使っていくことを合意。

検証体制形成の経緯詳細
2004年、AAF2004の参加プログラムのひとつとして、評価を考えるアートマネジメント講座「ひぐれ学校」が開校される。翌年講座の卒業生が実行委員会に入り、AAF2005年の評価を実施した。非専門家集団による評価報告書が完成。

2006年、より専門的な手法による調査へ。NPO法人アートNPOリンクによる検証チームを導入し、統計学などに基づいた新たな評価手法の開発を目指す。しかし、厳密な評価項目の設定に、現場では反発も強まってしまった。

2007年は前年度を踏まえ、現場レベルでは事前事後の自己検証に留め、モニタリングはドキュメントチームを結成し各地を巡回させ、そのレポートを検証委員会(実行委員会と外部専門家で構成)によってチェック。しかしチームのレポートの質にバラツキが課題になる。

2008〜09年は、そのドキュメントにある程度フォーマットを設定、検証委員会が実際にモニタリングして検証の質を統一する方向性へ進み、現在は、「同業者である企画選定者が、自ら選んだ企画を評価する」というピア・モニタリングの構図を重視し、選考委員会(実行委員会から立候補・互選され、そこに外部委員が加入する組織)が検証委員会を兼務する制度で落ち着いている。


Ⅱ.評価のそもそも論

アートプロジェクトを評価することは可能なのか?
元々自身が所属していた環境アセスメントのシンクタンクで、当時の米国での環境影響評価(EIA)という政策決定手法に影響を受けた。しかし異様に細分化された個別の指標における変化測定の技術的精度の高まりの半面、全体計画の意思決定・評価という問題に対して、EIAの問題点も指摘され始めていた。

2006年の検証チームの専門家が現場の混乱に対し言ったことは、「計画なくして評価なし」。目標値を設定し、現状が目標値からどれだけ離れているのかを測定するのが評価であり、計画がない漠然とした状況ではどんな技法を持ってこようが「評価はできない」。

t時間後の変化を予測する・・・といったような直線的な計画の概念は非常に洗練された。しかしそのアンチテーゼとしての「ゆらぎ」、円環的・螺旋的な計画は可能なのだろうか?

システム論者のエリッヒ・ヤンツがインフォメーション・ポテンシャルという概念を残したように、プロジェクトの価値は、次にくる予期しないプロジェクトをどれだけ生み出す潜在能力を持っているか?というアートプロジェクト評価も成り立つ。おそらく既存の直線的評価システムをある程度使いつつ、それ外側にある変化・ゆらぎ・予期せぬものの生成といった項目を新たな手法で評価する、そういったバランスが必要である。しかしその新たな手法に関しては、未だに断定的に言えるような段階にはない、これからの課題である。

AAFにとってのピア・モニタリングの可能性
AAFはアサヒビールという私企業のメセナであり、パブリックなミッションを持っているものの、税金を使ったプロジェクトとは一線を画している。「何かを世の中に問いかける」ことをある種戦略的に打ち出すために、あえて当事者間で選定・投資をしていく、そういった姿勢も許容されうる。もちろんそれは閉鎖的な当事者による「うちわ」の議論ではない。そのプロセスは開かれているし、フェアな過程である。


Ⅲ.質疑

Q.芹沢さんが関わった事例のプロジェクト・ポテンシャルを見る際に、具体的にどの側面に注目すればいい?

A.横浜トリエンナーレでは、トリエンナーレ全体の計画の中では傍流・予期しない展開がきっかけとなって生まれたZAIMやハマコトリといった存在がある。別府では、わくわくアパートメントという偶然性から生まれた企画があり、そこで生まれたネットワークが今では京都などで新たな展開を生み出しつつある。これらは、僕の中でプロジェクトの積極的な評価の対象になる。


Ⅳ.感想

様々なプロジェクトに関わったアートディレクターとしての現場感のみならず、環境アセスメントという、「直線的で洗練された」評価システムの只中に身を置いていた経験から、いかにアートがそういう評価に馴染まないか、そしてオルタナティブはありうるのか、という問題に対し客観的かつ積極的な議論をしてくださる、非常に稀有な方だと感じました。

AAFがたどり着いたピア・モニタリング的検証システムは、「直線的」評価と、「螺旋的」評価の間のバランスをうまく取った、アートプロジェクトのポテンシャルを測る一つの有効な可能性だと思います。しかしそこへの到達には非常に長い期間、多くの人間のコミットが前提となります。また芹沢さんがおっしゃる通り、私企業のメセナだからこそできる部分もあると思います。

純粋な市民活動・企業メセナ・国や自治体の政策、またその混成など、様々なプロジェクトの性質に応じた有効な評価モデルをバランスよく組み合わせていくこと。これからの社会と芸術の関係を判断する上で、AAFの9年にわたる評価問題との格闘の歴史は、そのアプローチに大いに参考になるものだと思いました。

研究会4|議事メモ

第4回TARL評価ゼミ研究会
日時:2010年11月29日(月)19時-
場所:Tokyo Artpoint Project Room 302(アーツ千代田3331内)
内容:
1)前回の議論の振り返り
2)事例報告 東京アートポイント計画の評価
3)ディスカッション


以下は、ディスカッションの話題を中心にまとめています。

■ 事例報告をうけて
・ AAFのようなフラットな関係ではなく、アートポイントは比重があるのでは。「可能性の評価」に近い。全体の配分のなかで、段階や状況が違うプロジェクトが組まれている。価値的なものが入っている感じがする。
・ そういう意味では、ピアメンタリングが難しいのでは。逆にピアメンタリングはみんながフラットだったら、成り立たないのではないか。お姉さんやお兄さん的な立場があったほうがいい。
・ 弟がお姉さんを評価するのは可能なのか。教師と学生の評価がありえるから、どちらでも意味をもちうるだろう。

■ インタヴューの手法
・ アートプロジェクトはアートを評価できるのか、という芹沢さんの投げかけ。たとえばインタヴュー調査をするときでも可能性や展開可能性を引き出したり、次の展開まで踏み込める何かを提示していく必要があるかもしれない。
・ そうすると具体的にどういう方法がありえるのか。インタヴューしていく人が価値化をしていくのか。
・ インタヴューをする人で、出てくる意見が変わってしまう。出てくるエピソードが恣意的になってくる。同じ質問内容でも違ったトーンの回答が出てくる。
・ インタヴュー対象者の選び方や聞き手によって変わってくるのではないか。

■ 結果の提示の仕方
・ 評価をするときに課題や問題点が分かっているから、次のステップを提示できるはず。マイナスな部分の扱いをどうしていくのか。課題があるから「次にどうしようか」という視点が出てくるはず。
・「問題は分かっているが、人が足りない、お金がない」で終わってしまうのではなく「課題だから次どうするか」というものを、どうすれば一緒に見つけていけるのか。
・ 話しを聞くのがいいのか。その先に何かを提示したほうがいいのか。

■ 内堀と外側の調査スタンス
・ 内堀で一緒にやっていくならば、外側の調査をするときに「内側の人です」と言うか「外側の人で内側にフィードバックする」と言うか。
・ 外側は外側、内側は内側でインタヴューも報告書も分けたほうがいいのでは。いいエピソードが出たとしても、ぐぐっと留めて分けていく。実際にやってみると、結局混ざってしまうのではないか。
・ 外に出すインタヴューとして始まっても、公開の確認の時点で公開できなくなってしまうことがある(削除依頼)。
・ 通りいっぺんの話(たとえば商店街が活性化したなど)しか出てこないことがある。でも、逆にそれは外向きにはぴったりなのではないか。わざわざ対面インタヴューなのに、通りいっぺんのストーリーが出てくる!みたいな(そういう話しを集めるにはアンケートがやりやすい)。
・ 現場を見ている雰囲気が重要になってくるのではないか。可能性を見ていくには。

■ 東京アートポイント計画という傘
・ 東京アートポイント計画全員で最後にミーティングをしてはどうか。
・ 東京全部のなかでどんな位置づけ(どんな可能性があって)ということから、東京アートポイント計画を考えていかなければならないのでは。
・ そもそも(共催団体が)他を意識したり、大きな活動のなかでやっているという意識があるのか。
・ 共催企画としてやっているので、ひとつひとつのアイデンティティが強くて、東京アートポイント計画としての傘で考えることはないのか。大きな傘をよりよくしていこうという考えは難しいか。
・ 東京アートポイント計画以外のプロジェクトも含めて、全体のプロジェクトで見ていくのはどうか。
・ プロジェクト全体の枠組みを問うようなやりかたができないか。企業が大きくなるときに明らかな他社をウィルス的なものを組みこむことがある(そういうやりかたがあるのではないか)。
・ その際の呼びかけは東京アートポイント計画なのか、評価をしたい外部の主体なのか。

■ 傘の影響力と設定の仕方
・ 大きな傘のインパクトと魅力はあるが、M&A的な感じもする。小さなプロジェクトが、たくさん生まれてきた状態で、全体として底上げしていくのか、ということを考える状況もあるのではないか。
・ 傘に入れるときの双方の思い込みで路線が修正されてしまうのでは(個人でやってきた面白さがなくなってしまう)。
・ 傘に入れることで、よりに自由にやってもらおうと思ったはずなのに、共通の目標が出来てしまう…。
・ 知らないうちに傘に入っているのがいいのか。傘が目的をもってしまう(たとえば地域活性化)と問題。ガイドブックのようなかたちになってくるのか。るるぶ的な。
・ AAF傘に入ることの変更度は少ないのではないか。傘にあることのインパクトは大きいのでは。AAFのような活動がいっぱいあるんだ、と全体的な盛りあがりを生んでいるのでは。
・ お金的なものではないけど、テンションが上がったとか、周りからの知名度が上がったなど。
・ AAFのグループ企業のブランドのような影響力。とはいえ、それもAAFの恣意的な判断があったから。

■ 他者をいかに巻きこむか
・ 芹沢さんの話しを聞いていて、AAFは開催2年目にディレクター制度をなくしたことは、大きなブレイクスルーだったのではないか。
・ たとえば偶然性の高い手法で選んでしまうとか。いきなり、他者を恣意性を排していれてしまうことの可能性。公募でも選考は恣意的になる。
・ 事業の枠組み自体を問い直すようなやり方ができないか。全然理解しえない人や知らなかった人と、どのように入れていくのか。
・(同じような価値観をもった人々の)ピアメンタリングなやり方、違う価値観をもった人も入ってくる方法。前者は東京アートポイント計画では可能だけど、後者は呼びかけることに「勢力意図」みたいなものが出てしまうだろう。
・ 東京のキャベツモデルを年に1回、書き換える場。大きな勢力としての東京アートポイント計画が見えてくるかも。

■ 次回のこと
・ 議論は出尽くしている。方向性は何となく確認できているのではないか。
・ これまでの意見をまとめていけば、何か見えてくるのではないか。
・ それから、何かアクションを起こすのにも遅くはない。