研究会5|議事メモ

第5回TARL評価ゼミ研究会
日時:2010年12月22日(水)19時-
場所:Tokyo Artpoint Project Room 302(アーツ千代田3331内)
内容:
1)前回の議論の振り返り
2)これまでの議論の図式化

以下は、ディスカッションの話題を中心にまとめています。

■ 個人まとめ:石田(佑)の図
・ ステイクホルダーをプロジェクトの運営者中心にまとめた。
・ それぞれにどんな指標がありえるのかを図式化した。
・ 行政を大きなもの(国など)と小さなもの(自治体など)の2つに分けた。
・ 今回は不参加者へのアンケートを考えずに描いてみた。
・ アーティストからのプロジェクトの評価が一番大事だと思う(アーティストに面白い人がいることで地域づくりへもつながっていくのではないか)。
・ 自己評価は入れるべき。プロジェクト運営者がそれぞれのステイクホルダーに伝えることを第一条件にしたい。
・ アーティストにプロジェクト終了後、「本当はこうしたかった」ということを聞く。あらためて場を設定することからポイントを捉える。
・ 観客アンケート:TwitterやSNSを使えば気軽に意見が聞けるのではないか。
・ 財団、行政はエピソード評価などいろいろあったほうがいいが、コストを理解した上で、どういう人からの意見がほしいかを事前に決めておければいい。そのうえで、投入できる資源を勘案して指標を設定する。
・ 担当者は現場でのヒアリングを行なう。できれば行政や企業の担当者がボランティアや地域住民と話をする機会をもつ。
・ 企業や財団は醸成対象者を選ぶ(選考が事前評価)。市区町村レベルだと打合せや日常的なディスカッションがあるから、いろんな材料を出す必要はないかもしれない。
・ コストの範囲内での評価について事前に関係者で決めてやること。アーティストからの事後評価をやるようにして、ステイクホルダーに伝える。
・報告書は地域住民などは読まない。行政担当者などへの説明責任の材料となっていくため、ここで評価指標を決めていけばいいのではないか。
・ 評価はそれぞれのパート(アクターとの関係)に分散されているのではないか。

■ アーティストと行政の評価
・ アーティストから不満を聞く。それを行政に伝える。アーティストの要求を無視してはいけないということを主張してほしい。
・ 率直に難しいと思う。その難しさがどこにあるのか。
・ 言葉がそもそも通じない。生きている言葉の世界が違う。
・ 客観的な評価ではなく、責任のなすりつけあいになってしまう危険性。徹底的にやってしまうと「来年からはやめてしまおう」となってしまう。
・ アーティストが不満を言うこと=作品をよりよくすること。行政が思うことは「アーティストがベストを尽くすのは前提として、社会にどんな意義があるのか」ということ。そもそも軸が違う。
・ 行政はアーティストという存在に不信感を抱いている、と言われる。多くを要求するし、約束は守らない、という。不信のシステムの真ん中にいる感じ。
・ 神山に行ったときに「評価はしていない」と言われた。行政と密なコミュニケーションができているから、それは必要とされていないのか。
・ 異動が多いと紙の資料でしかコミュニケーションがとれない。
・ 行政にも、担当者なのか、自治体全体なのか、と層がある。

■ 行政の思い描くイメージ
・ 行政が思い描いた地域住民像とのギャップがあるのではないか。たとえば、現在のコミュニティの状況があって、いい方向にもっていこうとする。そこで、思い描いているコミュニティ像が違っているのではないか(アーティスト像も同じではないか)。
・ そこから、かなり恣意的な評価軸をもってきてしまうのではないか。しかし、それを切った場合に、行政からお金は出なくなるが…。
・ いまはプロジェクト運営者中心で描かれているが、主体が変わることで違った描き方になってくるのかもしれない。
・ もし、ロールプレイング・ディベートをやるならば、自分の本当の立場とは違うものをやったほうがいいのではないか。

■ 広告代理店的なものとアートプロジェクト
・ 行政が一番やりたいのは、広告代理店に頼みたい。広告代理店ほどクオリティは高くないけど、それに近いことがアーティストならばできるかもしれないという思惑。
・ それに乗っかって違うものを提示しようとするアーティスト。行政とアート側が相互依存の関係。
・ 全部のジャンルで起こっている出来事ではないか。悪しきデフレスパイラル。そこから軋轢やストレスが生まれてきている。バブルの頃は代理店に発注できていたのに…。
・ それを分かって乗っかっているのか、本当に乗っかってしまっているのか。プロジェクト運営者の倫理観や、その価値(評価)にかかわってくる。
・ 上手く説明をし、場をつくって、アーティストの自由を確保していくこと。

■ アートプロジェクト・リテラシー
・ 見慣れていないとアートプロジェクトのよさが分からないかもしれない。アートプロジェクトにリテラシーが必要になるのではないか。
・ 行政担当者が現場を見て、面白さを理解してくれれば、評価担当者はいらない。でも、実際現場に来ても分からない(来場者数くらいしか)。
・ 継続や蓄積があれば、教育されていく効果はある。それが評価のいらない状態なのか(市区町村レベルで評価がいらないということ)。
・ たとえば広告代理店的なものを目指した効果から、がくんと落ちてしまったら、担当者はどう対応していくのだろうか。
・ 広告代理店的なものを求めなくなる。そうじゃない面白さに価値を転換ができるかどうかが重要になるが、そのときに別の評価軸を出さなければいけない。
・ まずは3ヶ月続けられるかどうか。その上で多様な説明をしていく。
・ 評価の手法の蓄積=あれこれ手をつくして説明されてきた歴史の地層。
・ 1970年代に叫ばれた「行政の文化化」=行政が文化を扱うだけでなく、行政の自己変革の視点もはいっていたはず。手法は複雑化しているけど、根本的なところは変わっていないのではないか。
・ 地層のような評価軸は、突き詰めればプロジェクトを守るために、恣意的で無根拠になってしまうのではないか。
・ 説明したい意味に向けて方法論を変えていくことに問題はないのでは。
・ 資本をアートに投入するということ(根拠がないものを信じなさい)ということ。

■「面白さ」をどう想定するのか/クリエイティブな手法とは
・ 多様な評価手法は、違う現実を描くための手法。関係を切り結ぶ相手とどういう現実を描けばいいのか、という手法が沢山あるということ。
・ ただ、この研究会の問題意識には「思い描きたいはずの像が従来の手法では描けていない」ということがあったのではないか。
・ これまでは「違う現実を描くこと(それで説明すること)から、こっそり実現していく」か「思い描くことができる個人がやってしまう」しかなかったのではないか。
・ アートプロジェクトは、一番話し合いたいところを話しあってしまうと実現しなくなってしまうのではないか。何かしら置き去りにして走りだしているのではないか。
・ そこが「アートの面白さ」やゼミでの「アートは評価できるのか」の議論で出てきたのではないか。でも、そうなると、見切り発車なのか、クリエイティブな方法なのか、は分からなくなってしまう。クリエイティブな独自の方法が必要だけど、何とでも言えてしまう。そこの線引きをどうしていくのか。
・ 一番遠いと思われる行政とアーティストの不信感を埋めるためには、そこをやらなければならない。

■ アートプロジェクトの面白さ
・ 表現を実現するまでの行政、地域住民やアーティストの交渉プロセスでの新しいヴィジョンをつくっていくことの面白さがあるのではないか。アートプロジェクトの形式としての可能性(アーティストの自由を実現するという従来のアーティスト観ではなく)。
・ そこの面白さに気づき始めたアーティストがいるけど、それこそがワークショップや広告代理店的な盛り上がりとして捉えられやすい。
・ その面白さを追求しながら、一方で説明をして場をつくっているプロジェクトが成功しているのではないか。
・ アートプロジェクトのマスターピースが生まれてきたのではないか。マスターピースをマスターピースとして捉えた言葉がないために、使われていく現状はあるのではないか(批評がない?)。
・ アートプロジェクトの作品が地域から離れても成立してしまうことへの疑問。
・ 「どこでもできること」(=アートのサーカス化)は悪く言うべきことなのだろうか。むしろ、地域ごとにマイナーチェンジはあったとしても、そうならないとマスターピース化しないのではないか。出力仕方は(地域によって)違うけど、フォーマットは一緒。第3者から見れば、同じように見える。
・ システムとしてアート作品であれば、そういうものなのではないか。
・ 「どこでも同じ」という批判は、アートプロジェクトの見方に慣れていないとも言えるのかもしれない(細かく見ると本当は違う)。

■ アートプロジェクトと地域
・ アートプロジェクトみたいな形式が「関係性」や「システム」というキーワードから作品が生まれてくることにつながっているのに、結果的に見えてくるときに、地域に密着していく作品の形式になっているためにそう見えてしまう。
・ 地域とアートプロジェクトを結びつけるのが、ミスリードになるのかもしれない。かならずしも「地域」と「アートプロジェクト」はイコールではないかもしれない。
・ サイトスペシフィックのアートとしてのアートプロジェクトなのか、リレーショナルアートとしてのアートプロジェクトなのか。アートがどう変化したのか、という議論がない。
・ アートプロジェクトが増えたのはミスリードのおかげ。危ういと言われるゆえんだが、明確に定義付けをしたら、呉越同舟の船が沈んでしまう。
・ アートプロジェクトの意義でよく言われるのは、曖昧だから色んな人が関わる余地があると言われる(商店街祭りではなく…というとき)。ミスリードを上手く使っているところはあるかもしれない。
・ しかし、昔ほどミスリードが使えなくなってきているのではないか(アートプロジェクトインフレ、ユーザーの気づき)。
・ ここで本当の意味での「アートの価値」を説明していけるかどうか、分岐点なのではないか。広告代理店的なものじゃないんだという価値形成まで斬り込んでいけるのか。

■ 社会とアート
・ 行政は最初の推進をしていくけど、あとはNPOなど自律的に展開していくことがありえるのではないか。
・ それでは、アーティストも運営する方も食えないのではないか。本来は市民の集合的な代表としての行政のはず。政策が地域住民を求めるものを提示するのか、潜在的なもの(少し飛び抜けたもの)を提示していくか。後者は多数決では弱くなるのでは。
・ ドイツでは「芸術の自由」がある。『ドラマトゥルク』もそのトーンで書いてあった(「見えなくなる職業」のドラマトゥルクはそれがないと成立しないという話から)。日本では、芸術のための芸術にお金が出るようになっていないのでは。

■ 個人まとめ:大川の図
・ カウンセリングを面白いなと思った。外部から言われることは、現場でやっている側は認識できている。上から目線でアドバイスするよりも(親のように色々と言うより)おじいちゃん的な存在が必要。
・ がっつりアドバイスするより、方向性を見出してくれるような人。
・ アートプロジェクトの経験を積んできたマスターのような人。
・ 自分とフラットに話をしてくれるけど、アドバイスをしてくれるような存在。
・ 色んな立場の人がいる組織は強い。みんな同じではなく違いがある(他者性)。
・ お母さん的(見守ってくれる存在)→もう少しこうやったほうがいいよね、と言ってくれるような存在。
・ おじいちゃんは業界が成熟しないと出てこないのではないか。
・ 企業のようなダイレクトに利益追求型ではなく、ゆるいアートプロジェクトだから出てくるのではないか。
・ プロジェクトのコンサルをするときに、家族構成は使えるのではないか。

■ ボランティアの運営
・ お母さん的な存在が出来たことで、一気にボランティア組織ができた例。上から目線ではない、役割はフラット。テンションは同じだけど、経験などが違う人だった。
・ カウンセリングが必要とされたのは「均質な人が集まりやすい」という問題だったのか。性別、年齢層が均質化せずに異質なものが入ってくるといいのか。
・ ボランティア募集の段階で、注意すればいいのではないか。一方で多様に募集すればいいわけではない。ばらばらだと、よそよそしくなってしまう。
・ 上手く配分できる「ボランティアの薬剤師」のような人が必要か(ボランティアバンク、派遣業…)。

■ 内堀の評価〜アート事業と投資
・ アートプロジェクトで外側の評価っぽく見えるんだけど、内側に食いこんでいるものってあるのだろうか。内堀の評価って何か。年末の展覧会ベストは内堀か。
・ アーティスト・イン・レジデンスって内堀に集中したものなのではないか。どんな評価をしているのか。どんな要請のなかで出てくるのか。
・ レジデンスにすると参加者数とかが求められないのではないか。そもそもの目的が投資なのではないか。
・ アートプロジェクトは投資だと思われていない。消費だと思われている。そのため、即時的な効果が求められる。
・ 美術館だと作品購入は投資になる。アートプロジェクトは消費=即評価。
・ 投資的な効果ってどう表現されるのか。現実的には捏造に近くなる。道路は事前評価に地層を組み上げていった(つくるとどうなる、という説明)。
・ こども向けのプログラムがやりやすいのは教育とオーバーラップしやすいから(投資的な効果が分かりやすいから)。効果が曖昧なもののほうが簡単か。
・ アートプロジェクトは社会的なヴィジョンを語れていないのか。アートプロジェクトがどんな財として捉えられているのか、は重要なのでは。

■ アートプロジェクトの歴史
・ 日本最古のアートプロジェクトとは何か。何を最古として考えるのか。
・ 牛窓国際芸術祭(1984年〜1992年)、白州か。
・ 加治屋健司さんの論文 http://www.art.hiroshima-cu.ac.jp/~kajiya/research.html#works
・ 橋本敏子さんの本(『地域の力とアートエネルギー』)を読んで、この15年で何が変わったのだろうか、と考えさせられた。アートプロジェクトは先行例を気にするではなく、走りだして始まった。そして、走り続けた15年だったのではないか。
・ 美術館が増えてきたのと同じ流れなのではないか。仕組みが出来ると次々とできる。90年代はアートプロジェクトが万能薬のように思われていた。

■ 個人まとめ:石崎さんの図
・ 評価を光にたとえてみた。プロジェクトのコア(イノベイティブなもの)を守る傘がある。
・ 紫外線(まちづくりなど)と赤外線(経済効果など)と可視光線。可視光線が届いてほしい。
・ 光が届くのであれば、副産物として教育や地域への効果が出てくる。
・ たまにカウンセリングなど養分を与えるとより芽が育つ。
・ 光はなければならない。けれど、有害な光をいかに遮るのか。光=社会の厳しい視線。
・ いい光だけをイノベイティブなところに到達するようにしたい。成熟した葉であれば、有害なものから守ることができるだろう。
・ ひとつの傘にしなかったのは、説明責任がものすごく発達したときに、どこかの時点で質も高くなってくるのではないだろうか。
・ 評価により質の高まりも認めておく必要があるのではないか。
・ 芽が生まれるか、生まれないかは偶然に左右されることも多い。

■ 評価のコメントの行方
・ 行政から評価のコメントが現場に届かない。
・ 見せたほうが当事者も学ぶところが大きいのではないか。(外から)どう見られているかは分かるのではないか。
・ 評価委員の言葉を匿名で伝えることの意義は何か(部外秘の意味)。

■ 個人まとめ:石田さんの図
・ 外側への説明=社会への説明責任(行政の人が使わなければいけない言葉)
・ 内堀=面白いこと、クリエイティブ、攻めの評価、よりよくしていく評価。
・ 評価者は両方をつないでいく役割がある。
・ 組織として、制度としてどう実現していくのか。たとえばAAFのようなアンブレラ型の方法。
・ 制度自体を組み替えることで、新しい評価のあり方があるのではないか。
・ 新しいファンドをつくることで、助成金の仕組み自体をつくっていく方法。たとえば、情報公開による認証制度を行っている京都地域創造基金の例。

■ 質的な材料の扱い方
・ (質的/量的など図式化することで)質的/定性的なものに対する態度を考えさせられた。対面インタヴューでも、ひたすら感動を引き出そうとしてしまう。
・ 第三者がいいかもしれなけど、なかなか口が重くなる。だから、おじいちゃん的な存在が必要なのか。期間をあけてインタヴューが重要。

■ 今後のこと
・ 今回の個人まとめで上手いこと分担が出来てきたのではないか。
・ アクターの図、攻めの評価のなかみ、キャベツモデル、全体的なスキームという流れが出来てきた。
・ ベースの考え方が共有されてきたので、個々の関心を深めていけた。

■ 次回の進め方:個々のテーマを、もう一段階を深めていく。
・ アートプロジェクトの評価におけるアクター。アクターごとに説明が違う。どう違っているのか。どうあるべきなのか。中心のアクターが違うものを数種類つくったほうが面白いかもしれない。

・ 攻めの評価(カウンセリング・批評・ドラマトゥルク)、で「おじいちゃん役」という言葉は説得力があるのではないか。
・ 評価者の適切な距離のとり方、具体的な人物像。内堀の評価でどのような役割、経験、知識が必要なのか。パーソナリティから普遍化できるといいのではないか(スキルまで?)。

・ 説明する言語のグラデーションと時間性。キャベツモデル:1)ひとつのプロジェクトの成長モデル、2)社会をキャベツとして捉える(芯のプロジェクト、外側のプロジェクトで捉えるモデル)。
・ 新しいプロジェクトが生まれるジェネレーションも考える。
・ イノベーティブなものをどう判断するか。事後的にしかわからないのでは。
・ 図の意味を言語で深めていけるといいのではないか。光はおじいちゃん的な存在が見えてくると分かりやすいのでは。

・ 評価者でつなぐモデル、アンブレラモデル、ファンドレイズするモデル。
・ 具体的なスキームがコアになってくるのではないか。
・ ウェブにファンドレイズにあるものが増えてきているのではないか。

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