研究会3|議事メモ

第3回TARL評価ゼミ研究会
日時:2010年11月1日(月)19時-
場所:小金井アートスポット シャトー2F
内容:
1)前回の議論の振り返り
2)事例報告 静岡県立美術館の評価
3)ディスカッション


以下は、ディスカッションの話題を中心にまとめています。

■ 事例報告を聞いて
・ どこまで、誰が評価の作業をするのか。投入できる資源と目標を設定しないと「ないものねだりのスパイラル」に陥るのではないか。再現のない天井を追い求めるようになる。
・ 「具体的に記述しろ」という発言(じゃあ、どこまで具体化すればいいのか)。
・ 誰か評価の材料を調査し、まとめているのか(学芸員では展覧会の仕事との兼ね合いが難しくなるのではないか)。
・ 客観的に自分を見つめ直すこと(日記を書くような)で意識改革(意識化)をできるのではないか。
・ あまり重箱の隅をつつくようなことばかりしていても、現場には届かなくなってしまう。ある種の緊張感をもったものにしなければ意味がない。

■ アートプロジェクトと美術館
・ たとえば美術館のアクセスが問題にあがったときにどのように考えるか(ハード面はどうにもならない問題なのでは)。
・ アートプロジェクトは地域との関係が評価軸にあがる。そこでの関係をつくりすぎて膠着することの問い直しを誰が、どのように検証できるか。

■ 評価の視点
・ 定性/定量と量的/質的という視点がある。学芸員のコメントは定性的だが、(評価の)考え方は量的なのではないか。数値の代わりに言葉なのだけれど、根本的な考え方は物語的ではない(処理が数的になってしまう)。
・ 年度ごとの目標で活動の歴史とあわせて変化されていくのはどうか(⇔ずっと共通の評価軸)。評価対象の活動段階にあわせたもの。

■ 評価と制度
・ ポジティブな評価とは何か。感覚的にでも展覧会が面白くなっているかが大事になってくるのではないか。評価に意味はあるが、想定の範囲内は越えないのではないか。
・ 評価では「制度」を考えなければならないのではないか。美術館のオルタナティブとしてのアートプロジェクトが出てきたとしたら、既存の制度の枠組みで捉えることはできないのではないか(「アートプロジェクトと評価」は、もともと矛盾をはらんでいる問題設定なのではないか)。
・ 近年の評価圧力はアートプロジェクトが「制度」の枠内に収められていくような流れなのではないか。
・ 評価の定義を「制度内の評価」とするのか、「制度未満まで評価」(自由で不確実なもの)とすることができるのか。後者へ対応することができるのか。
・ たとえば制度と評価が対応しているとすれば、評価は制度内のもの、未来のものは内部のマーケティングとしてしまうこともできる。「評価」という言葉は相応しくないのではないか。
・ 制度を前提としない「評価」では、そもそも評価を求められていないのではないか。

■ 評価の「外堀」と「内堀」
・ アートプロジェクトは行政主導が多い。そうすると目的とする地域づくりの評価になりがち(そもそも評価はそうなのではないか)。アーティストの自由な活動が目的ではない。
・ 運営側やアーティストの本当にやりたいことは何なのかを評価という言葉ですくいあげることができたら。アーティストの活動を評価するのか。批評と評価はどうするのか。
・ 漠然と違う方法があるのではないかと思っているが、別の方法が具体的には見えてこない。
・ 本当に新しい手法が出てきたときに、まずわれわれがどのように対峙できるのか。
・ 評価できないゾーンを報告しないゾーンにいれてしまうか、徹底的に記述してしまうか。
・ 大きな変化が見えてきたら(見える状態にパッケージ化されたならば)外に出すようにする。
・ (がっちり見えるようにして説明を行なう)外堀と(内側の判断で公開を制御する)内堀があるのではないか。内堀をつくらなければ実験的なアーティストの活動を後押しできない。
・ 成長を後押しする評価は外に公開する必要はないかもしれない。内部的に説明できる評価は「2、3人しか来ていないが、重要なこと」を説明できるかどうか。
・ 外堀で社会性をもたせつつと内堀もしっかりやり、両面をあわせて、社会的に認められるようなものを提示していく必要がある。
・ 内堀は批評の問題とクロスオーバーしてくる。内堀から外堀へ向かっていくようなキャベツのようなモデル。保育器から出た瞬間に面白くなくなるかもしれないけど、次を育てる外の壁になってくれる。
・ プロジェクトが外へ説明する上手さをもつだけでなく、自分たちが面白いことをやっているかどうかの「批評性」をもちつづけられるかどうか。
・ どんなものでも時間が経つと外側に追いやられていくのではないか。常に若い芽が出続ける準備しかできないのではないか。
・ プロジェクトとして仕組むときに若い芽を組み込んでいくことを意識的に進めていかなければならない。
・ これからはここで議論してきた言葉を細かく検証して積み上げていくことが必要になってくるのではないか。
・ 具体的な例に即して検証してみたい。たとえば当事者に「なぜこれが批評性があるのか」と丁寧に聞いてみたい。でも「言葉にならない」「分からないからやっているんだ」ということになってしまうのではないか。
・ 作家はそれでいいが、意欲的なアートプロジェクトを行っている人もそうなってしまう。言葉にできたときのつまらなさ。言葉になったときに外側になってしまっている、とも考えられる。
・ レイヤーが沢山あって、コアな言葉にならないところがあり、一番外側に誰にでも説明できるような言葉がある。キャベツのコアを生み出すような循環性、自己生成性。
・ 評価には説明責任だけでなく、汎用性もあったが、おそらくコアな部分は他には活かしようがないところ。そこを取り出してどうなるのか。
・ 取り出して「これが価値があるんだ」といってもらえることで、それを価値と言っていいんだと言えるようになる。
・ コアなところを取り出すことは「そうやればいいんだ」ではなく、次のアイディアを刺激するようなもの。汎用性のあるモチベーション、起動するスイッチとして取り出す(使えるツールではなく)。道具ではなく、態度。
・ 「こういうものもあるんだ」と実験的な空気が飛び火していく。それがなければくじけてしまう人を救うようなものになっていくだろう。

■ 現行のプロジェクトの評価(テラトテラを事例に)
・ 目標の達成の精度を厳密に吟味していく、目標を疑うことをやってみてはどうか。
・ でも、ざっくりした目標だから走れているところがあるのではないか。その辺を精緻化していくことで走れなくなってしまう。全部を決めてしまうと、それしかできなくなる危険性がある。
・ この規模でのプロジェクトには評価は必要ないのではないか。プロジェクトとしてまわっていく機能としての評価が必要なのではないか、という前提がテラトテラの評価にはある。

■ アートプロジェクトとマネジメント
・ すべてのアートプロジェクトの問題は、「アート」以前の問題なのではないか。
・ そっちに引っ張られて「アート」がおざなりになる問題があるのではないか。アート的に面白くない、は、そっちにひっぱられてしまうため。でも、いままでのアートプロジェクトは、そこを評価してきたのではないか。
・ でも、「アート」以前という枠組みを設定するようなモデルを考えてもいいかは分からない。
・ 「アート」以前で四苦八苦していることが常識化しているアートプロジェクトの状態で、そこを指摘してはどうなのだろうか。
・ アートプロジェクトにおいてアートは赤ん坊のようだ。常に慣れない。
・ 開き直りが通じなくなってきているのが、今の状態なのではないか。 このままでは同じ問題を指摘して終わってしまうのではないか。
・ マネジメントの問題を指摘してもしょうがない。コンサル的なことをしてくのではないか。
・ 問題を話す場所を提供する。家族カウンセリングと似ている。第3者がいると話ができること。

■ 批評/評価/カウンセリング
・ アートプロジェクトの評価的なものはカウンセリング、コンサル的なものなのではないか。
・ 常に流動的な組織状態で動かなければならないため、カウンセリング機能が必要なのではないか。でも、かならず崩壊するわけではない。
・ サポーターなど入ったばっかりの人が意見を言うことができる。長く活動している人が発言しやすくなってしまう。
・ 面白さを安心して追求していける状況をつくることができるか。
・ 外堀的に説明できるものがあり、カウンセリングが機能すればいいのか。
・ 全部外堀にしようとするからつまらなくなるということは(研究会で)共有できた。

■ アートプロジェクトの評価者とは
・ 内堀の面白さを分かりつつ、外堀をやるポジションが必要なのではないか。
・ アートプロジェクトの相談役=カウンセラー?が派遣されていく組織。
・ カウンセラーの役割は何かをアドバイスするのではなく「問題を聞くこと」か。
・ でも、やった場合とやらなかった場合の比較ができない(一般的なカウンセリングでの治ったとは= 日常生活に紛れ込ませることができるレベルまで→ぎりぎりアートって言えるレベル?)
・ プロジェクトを評価するということでは、人とのカウンセリングを行なうことで達成できるのか。
・ 組織が続いていくために評価すること、社会的な意義を説明していくことは違って考えていく必要。
・ ドラマトゥルク=一緒に作品をつくっていく側に入っていく職。
 http://sampleb.exblog.jp/12392452/
 http://www.nettam.jp/blog/2010/06/post-41/
・ たとえば「プロジェクト・ドラマトゥルク」がいることで成立することがあるのではないか。
・ 作品をつくるほうと説明するほうが共有するものがない状況で、分離し、対立してしまう状況があるのではないか。
・ 内堀を共有しながら、あえて外堀へやる人や、内堀を深めていく人とひとりでできないところを分けてしまうのがいいのではないか。
・ 最初にやった人はひとりで内堀と外堀を身体的にやっていた。その重要性が示されたなかで、それをモデルや方法としてやろうとしたことは難しい。
・ カウンセラーよりも深く作品に入っていく方向なのではないか。
・ 内と外をつなぐ人がいないと、内で戦い切れないということがあるのではないか。
・ 意図的に2つの役割を分けて推進していくことが必要なのか。
・ 完全に分けていくモデルは必須ではないが、必要とされているのではないか。
・ ドラマトゥルクってどうすれば育成できるのか。文芸プロフェッショナルか。
・ もし、組織論的なことなのであれば、「安上がりな組織コンサルがいない」ということが問題なのか。
・ ドラマトゥルクは目新しくないと感じるのは、展覧会ならばメインとサブのキュレーターがあるから。
・ でも、メインとサブではないか。別府のプロデューサーとディレクターの在り方はどうか。
・ 評価は第3者ではなく「社会とつなぐ役割」というのは新しい視点かもしれない。
・ 行政でやると固い評価になってしまうことが問題なのではないか。
・ いまの日本では行政との間を上手く渡っていく人が大事になるのではないか。民間では比較的小さな活動も見ていてくれる。
・ 行政では、対個人でやりにくいのかも。けっきょく個人的な関係をつくっておくことが大事になるのではないか。民間ではそれが見えやすいのかも。
・ 小規模と大規模でやり方は変えたほうがいいのかもしれない。

■ 評価の傘
・ 片山さん、プログラム評価の話しをしていたけれど、東京アートポイント計画はそれでいける。テラトテラの評価を個別でしなくともいいのではないか。その点、AAFは上手い。
・ 小さいプロジェクトは、いくつかのプロジェクトをまとめて、おおまとめで評価をしていくのはどうか(日本中がアートポイントで)。数が集まれば、数値として力をもつ。
・ 勝手に想定してやることは可能なのか。アートポイントやAAFという傘以外に、どんな傘を設定すればいいのか。エリア、地域で区切るか。
・ 大きな傘をどのように設定するのか。たとえば日本全体でどんな成果があって、どんな社会的なインパクトにあったなど。
・ 組合ができてしまうと、そこの利益を守ることになってしまう。少なくともアートプロジェクトが増えすぎだよね、とは言えなくなる。
・ 組織化を嫌がるのではないか。デメリットがあるのではないか。
・ アートNPOフォーラムに自分たちで寄付の基金をつくった団体があった。評価を自分たちの手に取り戻すようでよかった。制度と評価がくっついているのであれば、制度を変えていくほうに動いた。
・ みんなが行政に説明をしていくよりは、対象が多様化していいと思う。
・ 傘をつくることのメリットとは何になるのか。「面白さ」を代わりに言ってくれる人になるのか。ロビー活動はしやすくなるのではないか。
・ AAFの検証会もピア・カウンセリングに近くなるのではないか。とにかく、言いたいのではないか。
・ 傘も圧力団体ではなくて、病院のようになってしまうか。アートプロジェクトの病院。駆け込み寺。
・ 公開カウンセリングや定期健診を行なうのかどうか。

■ アートプロジェクトとカウンセリング
・ アートプロジェクトのカウンセリングの専門性とは何か。
・ 話したいだけなのか、何かを言ってほしいのか。「あなただけのプロジェクトの問題じゃない」と言うことの意義。他のプロジェクトがよく見えるらしい。
・ AAFは公開ピア・カウンセリングになっているのではないか。アートポイントの公開ピア・カウンセリングをすればいいのではないか。
・ 「みんな同じ問題を抱えている」という問題を共有する議論だけでは、次のステップで何をするのか、は見えてこない。
・ 予想外の状況が面白いけれど、予想外の状況でしかないのは大変。ベースがあったうえで、予想外の状況が生まれてくるのはいいのだけど。
・ イノベーションが生まれる前提が共有される前に、駄目になってしまう。

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